-『黒い雨』井伏鱒二-
例えばもし自分が
一つの事柄に出会った時
こういう風に思わず考え
こういう対応をしがち・・・だよな・・・
という観点に立って自分を見たとき
その時があなたの考えは実はあなた自身が形作ったものでは
なかったかも知れないという思いに至る瞬間なのかも知れない
自身も含めて長い間、自分を取り巻く環境や
自分が経験してきたこと
自分の考えとして持って生きてきた癖や何やら
実は多くは自分では選んできていない
大体の人がそうだと思う
世界の中の
日本の中の
ある地域の
ある親から産まれた
全ての私達
互いに影響を受け合って
親との約束、決まり事
その親は地域との約束、決まり事
その地域はもっと大きな県、国との約束や決まり事を
国は世界との関わりを基盤にしている
少し前まではみんな見るテレビはほぼ一緒だったしね
そこから発展したものは
もっと便利に
もっと自由に
もっと・・・を追い求めてきたはず
現代の日本人は他の貧乏な国に比べたら
めちゃくちゃ安全で豊かだし
心配事が少ないんだよね
だけど人で苦しんでる
みんな人で苦しんでる
遠い歴史とか、まぁ言ってしまえば戦争とか
実は自分には関係ないって言うことはできない
未だにその当時の思いや考えを引きずってるものだ
気付いていなくても
地域によっては
どうしても特定の地域の人と
いざこざが起きやすく
笑い話に出来るレベルにあっても
根底の感情は拭い切れてないとか、ね?
歴史を自分がいる時代から遡って
その関係性を自分と絡めて勉強していってみると
あ~こんなにも人間って実は進化しきれてない
変化が恐ろしくて恐ろしくて
なるべく見ないようにしちゃうんだ~って実感する
その一瞬一瞬の恐怖に目をそらし続けて
次の世代にも引き継いじゃう
それが自分のせいだと思えないし思いたくない
自分は関係ない、と思っていたい
自分の安心・安全が大事だし・・・?
まぁ自分はあの世に行っちゃうから関係ない
と思うのは自由かも知れないけど
いつでも他人事の人が誰かに文句を言うって
実はとてもとても無責任だし
それを自覚できたとき
初めて自分が自分の生き方を選択していくんだって
覚悟が決まると思う
この本の中には
広島で原爆が投下された後に降った黒い雨の体験談を
様々の人の視点を通して
そして著者(というか本の中の主人公)の目から見た
戦争の愚かさと、それを公言することを許さない
暴力的な教えなど当時の状況が詳細に描かれている
その当時もたくさんの人が戦争に疑問を持ったはずで
実際にたくさんの本や関連のCD、DVDまたは体験者の講演等でも
現代に入ってこのままではいけないと勇気を持って証言する人が
出てきてくれたことはとても有難いことです
伝えたい、とか言えなかったけどこういうこと思ってたよ
という庶民の本音の中に本当の意味での生活ってこうだよね、とか
疑問を持ってぶつけられない状況って異常だよね?
そろそろ言ってもいいよね、って思って
今後の人達を思いやって語りたくない自身の辛い経験や思いを
勇気を出して発信してくれている
原爆が落とされたあとの
人々の症状や苦しみ
それを見た人の苦しみ、罪悪感
訴える場所がない無力感 虚無感
本文中に積極的に従軍志願をしなかった若者に対して
中佐が叱責する場面がある
国家存亡をかけた戦いから逃げようとするその姿勢は何事か、と
だけど実際は病気で足が悪いとか健康状態がよくないとかで
はじかれた、もしくは遠慮した、家族から反対された
そういうことであるのに軍人は自分の経験しかもちろん知らないから
そういう現状を目の当たりにして逆にはずかしめを受けた気持ちになり
すこしせせら笑ってしまった予備兵に対して強烈な往復ビンタを浴びせる
逆恨み以外の何物でもないよ!
でもそれに逆らう術がその当時はなかった
こういう人達の言うことを聞いて
たくさんの若い人が犠牲になり
その家族が悲しい思いをしてきたんだ
本当にこの部分を読んだとき
我が意を得たりと思って
自分が追い求めてきた今の現実の原因と言えるべき
圧力的な教えがここまで如実に現れた文章はないな~と思った
余り大きな声では言ってはいけないかも知れないけれど
出る杭を叩く とか
空気を読む とか
集団的な圧力 無言の圧力 は
こういう本当にあった現実から醸成され
今も当たり前に存在していて
あたかもそれが唯一無二の正義と勘違いする人も
出て当然だろうし 誰も責めることはできないかも知れないけど
気付いた人から やめていくように努力することが
お互いに首を絞め合う仲間から
自分はもう参加しないという
これからの生き方にシフトする
チャンスなんだと思う
主人公が親戚の女の子を引き取って
原爆症ではないかとあらぬ噂を立てる近所の人や
その近所の人の話を信じて実際に婚姻を取りやめる人に対して
実の子ではないその子のために駆け回る姿は感動ものだし
なかなか出来ることではなかっただろう
特にその当時のことだから
親の都合で子供の人生が決まったり
それが当然だったりして
いつもいつの時代もしわ寄せは一番反論できない人、部分に行く
たくさんの犠牲のもとに現代の人は生きている
犠牲を正当化するのではなく
間違ったことを間違っていると言う勇気とか
勇気を持って言った人を称える勇気もまたいいよね
そして言いやすくする環境を作るとか
そういうことが一人一人ができることで
決して抑え込むとか
圧力をかけて集団の意見に従うようにする とか
そういうのではもう無いんだ、って
たくさんの人が気付いてきてると思うんだけど
そうでもないんでしょうか?
まだまだたくさんの犠牲を出さないといけない?
自分が犠牲になる段にならなければ考えることも出来ない?
でもその時になってからでは遅い
その時はちょっと待ってって多分言えない
というか既に犠牲になっていてそれに気付いてない人がほとんどかと
出る杭を叩く側もその犠牲の一形態なんだと 犠牲の連鎖への協力者として
日本が発展してその豊かさ安全を享受しているのと同時に
知らず知らず産まれながらに受け取ってるもの
影があるから光が存在できる
光は影がなければ存在し得ない